「冬萌の朝 新・白磁の人 」








仲村さんから送って頂いた本の感想です。
どこかで聞いたことがあるような浅川巧 を主人公とする江宮隆之著「冬萌の朝 新・白磁の人 」

山田洋次監督が映画化公式サイト映画、楽しみです。

日韓併合後、韓国に住み韓国人を愛し、韓国の文化を愛し、そして
韓国人に愛され韓国で40歳の生涯を閉じた実在の人物「浅川巧」の生涯を描いた感動小説。
朝鮮白磁を通して交流を深めた日本人「浅川巧」と、ソウルの青年安舜臣。
しかしやがて舜臣は巧と決別し、朝鮮独立運動に身を投じる。
憎しみの果てに舜臣が見たものは・・・。
「暴力では何も生まれない」「憎しみからは何も生まれない」(本分よリ)
病死するクライマックスでは涙なしで読めませんでした。
魂を揺さぶる感動の物語です。
2006年 柏艪舎刊

ほとんど病院の待ち時間に読むことが出来ました。
日本による朝鮮王妃の殺害、関東大震災時の韓国人虐殺、3.1独立運動弾圧、韓国のジャンヌ・ダルク柳 寛順 ユ ガンスン虐殺(昔大橋巨泉の11PMで初めて彼女の事を知った時は思わず手をあわせた)韓国併合、名前や韓国語、族譜を奪った ことなど、日本人には償いきれない事実の連続。



そんな時代に帝展に朝鮮男性の彫刻で受賞した浅川伯教(のりたか 朝鮮古陶磁の神様と称される。)

弟、巧(たくみ)は、明治時代半ばに今の北杜市高根町に生まれました。日本の植民地統治下の朝鮮半島に渡り朝鮮工芸の美に魅せられ研究した人です。兄の浅川伯教は、朝鮮陶磁史の研究にその生涯を捧げ、弟の巧は朝鮮の山と工芸、そして朝鮮の人々を愛しました。
 兄の伯教は、朝鮮の美術に魅了され、1913(大正2)年朝鮮に渡り、700箇所にも及ぶ朝鮮王朝陶磁の窯跡を調査し研究しました。陶磁器の時代的変遷を明らかにした研究成果は、朝鮮陶磁史の基本文献としてまとめられ今日に至っています。
 弟の浅川巧は、1914(大正3)年、兄の伯教を慕って朝鮮半島に渡り、林業技師として荒廃した山々の緑化に奔走するかたわら、兄とともに「朝鮮白磁」をはじめとした朝鮮陶磁の研究に心酔し、名著『朝鮮陶磁名考』を書き残しました。巧はまた、木工芸品の中に民衆芸術の美を見出し、優れた文化として日本に紹介しました。 巧は、日本の植民地支配の時代にあって、現地の人々に同じ人間として接し、朝鮮語を話し、その地の風俗や文化を愛し、まわりの人々に敬愛され、 1931(昭和6)年に40歳の若さで朝鮮の土となりました。今も、ソウル市忘憂里(マンウリ)にある墓は、彼を慕う韓国の人々によって守らている




巧は韓国語をマスターし韓服を着ていたので韓国人とみられたり日本人からは苦々しく思われていた。野菜売りの韓国女性から買いたたく日本人の後にその分を支払ったり、山に緑植えたり、韓国人に教育受けさせたり、韓国の名もない職人が作り上げた白磁の美を見出し朝鮮民族美術館作ることに奔走したり人。

その最後の描写も涙。

韓国映画 「スキャンダル」ペ・ヨンジュン主演でも韓国美術の素晴らしさに感心したのでしたが前から韓国の青磁、白磁、民画、ポシャギ(女性手作りの風呂敷のような物)などの魅力派知っていて柳宗悦の日本民芸館も見学しました。
韓国の骨董は勿論手が出ませんが。

柳さんの妻兼子さんのドキュメント映画には驚きました。「声楽の神様」とまで称され、数々のドイツ・リートを歌った方。ヨーロッパで活躍することもできたのに。息子さんたちも園芸家や文化人。



以下も引用です。

柳宗悦  嘉納治五郎は母勝子の弟であり招かれる様に、現在の千葉・我孫子(現:我孫子市)に住んだ。さらに志賀直哉らを呼び、我孫子に文人らが集結するきっかけをつくった

  • 1914 年中島兼子と結婚。柳兼子は近代日本を代表する、アルトの女性声楽家だった。
  • 長男にインダストリアルデザイナーの柳宗理、次男に美術史家 の柳宗玄、三男に園芸家の柳宗民。甥に染織家の柳悦孝、美術史家の石丸重治がいる。

朝鮮とのゆかり [編集]

  • 1919 年3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である。」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が、朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、当時ほとんど顧みられることのなかった朝鮮の陶磁器や古美術を収集し、1924年には京城(現:ソウル)に朝鮮民族美術館を設立した。
  • 1922年には私家版で和装本『朝鮮の美術』や『朝鮮とその藝術』(叢文閣)を出した。また限定版の編著『今も続く朝鮮の工藝』(日本民藝協会、1947年)がある。春秋社で『選集第4巻 朝鮮とその藝術』、集大成で『全集第6巻 朝鮮とその藝術 ほか57篇』がある。
  • 朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を雑誌<改造>に寄稿した。これが大きな反響を呼び、光化門は移築保存された。

交流、著述活動 [編集]

  • バーナード・リーチとの交友も知られる。『バーナード・リーチ日本絵日記』を訳している。(毎日新聞社 1955年、新版講談社学術文庫、2002年、補訂解説水尾比呂志)。またバーナード・リーチ・河井寛次郎・濱田庄司述、柳宗悦編の『焼物の本』(共同通信社 1985年、解説は水尾)が、日本民藝館創立50周年記念で復刻出版された。
  • 仏教学者・禅者の鈴木大拙は、柳の学習院高等部時代の英語教師で生涯交流した。弔辞「柳君を憶ふ」がある。
  • 沖縄文化を生涯にわたり紹介し、1938~40年にかけ4度沖縄県に、滞在調査した。詳しくは『選集.第5巻 沖縄の人文』、集大成『全集. 第15巻 沖縄の伝統ほか』、また編書『琉球の文化』、『琉球の陶器』(1995年に榕樹社で復刻、榕樹書林に1997年改名)や、『沖縄と柳宗悦』(沖縄タイムス社編、1989年)を参照。
  • 江戸時代に全国各地を廻国し造仏活動を行い独特の「微笑仏」を残した木喰行道や妙好人の研究を行った。特に木喰研究は柳宗悦の木食仏発見が契機となったことで知られる。『選集.第9巻 木食上人』を参照。また円空仏に関する論考もあり、全集『第7巻 木食五行上人ほか』に所収。

「声楽の神様」とまで称され、数々のドイツ・リートを歌った。1927年にはグスタフ・マーラーの歌曲集「亡き子をしのぶ歌」「リュッケルトの詩による5つの歌」及び「子どもの魔法の角笛」の中の“死せる鼓手”“少年鼓手”を日本初演している(近衛秀麿指揮、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の定期演奏会)。1928年ドイツ留学、ベルリンでのリサイタルではドイツ人を驚愕させるほどの日本最高のリート歌手であったが、軍歌を歌うことを頑なに拒否。1930年自由学園講師、1933年東京に帰り毎日音楽コンクール審査員。1939年帝国音楽学校講師。1946年皇居において御前演奏、1950年毎日音楽賞特別賞受賞、1954年国立音楽大学教授、1961年紫綬褒章受章、1965年日本芸術院賞恩賜賞受賞、1966年皇后還暦記念御前演奏、1972年日本芸術院会員。

85歳まで公式のリサイタルを続け、その後も数年間は私的な集まりで歌い続けていた。また92歳で亡くなる死の2ヶ月前まで後進の指導にあたっている。これは肉体を自身の楽器とする声楽家では普通はあり得ないことであり、世界的に見ても87歳まで演奏活動を続けた声楽家というのは彼女以外存在しないであろう。

2001 年、柳兼子再評価の機運が高まり、オーディオ・ラボのレーベルで長らく廃盤になっていたいくつかの音源が復刻された。また他にもアートユニオン、グリーンドアのレーベルからもCDが出されている。「現代日本歌曲選集2 日本の心を唄う」(オーディオ・ラボ OVCA00003)に収められた「荒城の月」「九十九里浜」「平城山」「小諸なる古城のほとり」「早春譜」「浜辺の歌」等の演奏は、当時83歳の演奏。

2003 年には佐藤隆司企画・原案、渋谷昶子脚本・演出によるドキュメンタリー映画「兼子 -Kaneko」 (全農映)が制作され、その後、日本各地で上映される。また英語版も翌年に制作され、すでに海外でも上映がされている。その歌唱法には長唄の要素がとり込まれていることが指摘されている(渋谷昶子脚本・ドキュメンタリー映画『兼子-Kaneko』2003年)。

「兼子 -Kaneko」は小さな映画館で公開。脚本・演出の渋谷昶子が来演された。私は講演があるとも知らず時間に遅れ聞き逃してしまった。残念。
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