三笠宮と五日市憲法、紀元節

<評伝>三笠宮さま 平和の大切さ、訴え続け

 「戦争」と「昭和」を背負い続けた生涯だった。三笠宮さまは現在の皇族の中でただ一人、軍人として戦地へ。日本を破滅に追い込んだ軍部独走への怒りと、自らもその一員に加わったことへの反省は戦後、平和の大切さや国際親善の重要性を一貫して訴える原動力になった。
 戦前の男性皇族は、陸海軍いずれかの軍務に就く決まりで、三笠宮さまは陸軍に進んだ。一九四三年一月、参謀として赴任した中国・南京で、聖戦の美名からかけ離れた日本軍の蛮行を知る。自著では、任官して間もない頃を振り返り「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」と記している。
 九八年に国賓として来日した中国の江沢民国家主席(当時)には、宮中晩さん会で「今に至るまで深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」と話したとのエピソードが残る。
 終戦間際、陸軍内の戦争継続を主張する勢力から協力を求められたが、断固として拒否したとされる。
 戦後は歴史研究者として、事実を何よりも重視する姿勢を貫いた。五〇年代後半、「建国記念の日」として紀元節(神武天皇が即位したとされる日)の復活を目指す動きに「歴史的な根拠がない」と反対論を唱えた。政治的な発言ができない皇族という立場からの際どいメッセージに批判の声も上がったが、自説を貫いた。
 皇室の在り方にも「菊のカーテン」という表現で、閉鎖性を批判することがあった。幼少期に大正デモクラシーの自由な空気に触れ、皇位継承の可能性が低かった大正天皇の四男という比較的自由な立場も、人格形成に影響したのだろう。
 三笠宮さまの戦争と平和に対する一貫した姿勢は、戦没者慰霊に全身全霊を注ぐ天皇、皇后両陛下をはじめ、次世代の皇族方にも受け継がれている。皇族として何をなすべきなのか思索を重ね、行動した人生だった。

中日春秋

 「近代日本の黎明(れいめい)期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、感銘を覚えた」。皇后美智子さまが、そう評されたのは、自由民権運動の熱い熱の中で生まれた私擬憲法案「五日市憲法草案」である
▼この画期的な文書を一九六八年に見つけた歴史学者・色川大吉さんはある時、「三多摩自由民権運動展」を開催したが、地元の役所もマスコミも冷淡で、さっぱり来場者が来ない。困って、旧知の著名な歴史学者に助けを求めた
▼翌日、その方は来場し、興味深く見ると、大声で「こんな自由民権の時代にも権力の弾圧があったのですか」と言い、会場にいた記者らを驚かせた。この歴史学者こそ、三笠宮崇仁さま。おかげでイベントは大盛況になったそうだ(『色川大吉歴史論集 近代の光と闇』)
▼戦時中、軍務で中国に赴いた三笠宮さまは、そこで「正義の戦争」とかけ離れた醜い現実に衝撃を受けた。その経験から戦後、「社会正義」の歴史的源流を求め、古代オリエント史を研究し始めたという
▼皇族として福祉など社会事業に専念すべきではないかとも悩んだが、自問の末に、歴史を学び続けることは「未来の義務を考えること」と意を決したそうだ
▼激動の時代を歴史の証人として生き、百歳で逝去された。その一生そのものが、未来への熱い願いがこめられた歴史書にもみえる。
 

色川先生懐かしいです。
30年ぐらい前、自由民権や田中正造のフィールドワークに行きました。足尾銅山、田中正造記念館、秩父事件関係回りました。

明治の青年たちが英仏の人権思想の本を取り寄せ、勉強して
各地で民主的な憲法草案作りましたが、その一つが五日市憲法です。
残念ながらそれらは明治政府により弾圧され政府は国民には秘密のうちに君主権の強い憲法を発布、それが戦争への道でした。

人権思想の大嫌いな今の政府、リベラルな皇族も癪に障るでしょう。
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