海外庭園のフジやサクラ、芍薬





まだイタリア庭園めぐり続きますが(上はフィレンツェ郊外のメディチ家の別荘)

遺跡のフジや花にヒロメールさん

SURAさんが反応してくださったので、今まで訪れたヨーロッパの名園をちょっと紹介させてください。

書庫海外庭園巡りやコッツウォルズの旅にもとの記事があります。

もうご覧くださってる方はスルーしてくださいね。


  


もうエントランスの古い建物に絡まるバラを観ただけでノックアウトされました。
 
孤独のアメリカ人の癒しのガーデンといわれるヒドコートマナーガーデンにはいくつかの部屋のような庭があり、次の庭が見えないようになっているので期待が高まります。

イングリシュガーデンのお手本になった庭です。今はナショナルトラストの管理。

ここの庭はなんと言っても緑のロングウォーク が有名です。

結構長いその先にはコッツゥオルズの広い田園風景が気持ちいいのです。

佐久市にこのコピーの庭があり一度いきましたが閉園したといううわさを聞きました。

ご存知の方がいらしたら教えてください。もったいないです。日本は建物も作っては壊しで。

コピーとしては佐久市のクィーメアリーガーデン が上出来だと思ったのですが。



 
緑のトピアリーに囲まれた可愛いエンジェルの噴水。

コレに見とれた私は反対側の鳥のトピアリーを見逃してしまったのです。





 翌年は交通の便が非常に悪いのに懲りてレンタカーで再訪しました。




ここにはパープルの藤  ヒドコートマナーガーデンにて。





リーズ城のサクラ




ヒドコートマナーガーデンで獲物を狙っていた猫


この HAILES ABBEY、遺跡は1246年に建てられた修道院、ヘンリー8世の修道院解散によって破壊され、建物の跡が一部残るだけ。

スードリー城の庭で出会った女性がスノーヒルズガーデンに行く途中にあるからと誘ってくれた静寂に包まれた世界。遺跡巡りも好きなので渡りに船であった。

 近くに蒸気機関車も走っていました。このときは乗りませんでしたがその前に

ブロンテ姉妹の故郷ハワースやピーターラビットの湖水地方へ行った時に乗りました。





ヘンリー8世の6番目の妻のキャサリン・パーの王妃の庭。
スードリーカースルガーデンズ

このクロムウェルが破壊したといわれます。廃墟と池の感じがたまりません。




大好きな女三代の庭キフツゲートコートガーデン の芍薬  ここのギリシャ神殿のような建物が立派です。


ロウシャムハウスガーデン



シーボルトがアジサイや椿、ツツジ、サツキなどを日本から持ち帰った 話は有名ですね。

シーボルトの日本人の妻はお滝さん、そこからオタクサ、と呼んだそうです。

紫陽花は学名Hydrangea otakusa

明治には イギリスなどのプラントハンターが日本のユリなどを持ち帰り、今ではそれが改良された花たちが日本に来ています。

何メートルもの高さの椿をテレビで見たことがあります。
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民主党代表選とザ・ニュースペーパー公演





野田さんが新代表になりましたね。今聞いた本人の演説、具体的な話はないので?です。

原発再稼動積極的的な海江田よりはいいけれど。野田さんは原発再稼動容認ですね。

小選挙区制になってからますます偽民主国家のようで、国民の苦難をよそに‥

先週、政治コント集団ザ・ニュースペーパーの公演に行ったら民主党代表選入り口調査の紙が配られました。もうこれから笑えました。

ザ・ニュースペーパーの公演は何回観たか、会場も続々変わり最近は中日劇場になりました。

トップは紳助と前原(笑)

紳助引退の記事が一面になり前原が嘆くというもの

この劇団の舞台はいつもまず政界情勢から、

最初に出てきたのは、小泉が持ち役の松下アキラの菅直人

残念ながら会場の反応が今ひとつだったので、うまれて初めて役者さんにエールを飛ばしました。



松下さんは堂々たる体躯で前は筋肉芸wwwwを披露していました。


出身地:福岡県北九州市出身  
最終学歴:北九州デザイナー学院卒業
プロの看板職人から突如、演劇にめざめ役者を志す。
という方です。

持ち役菅直人 小泉純一郎 東国原英夫 バラク・オバマ 舛添要一

アニマル浜口 亀田史郎 田中将大 タイガーウッズほか
、凄いでしょう。



  


この写真は爆笑ザ・ニュース・ペーパーの時のもの。


今、朝夕、教育テレビのフック ブック ローで歌は勿論演技も披露している谷本賢一郎のライブが9.1に大久保であります。 

新しいCDも発売されました。

私は谷本さんの歌や替え歌が大好きです。替え歌の歌詞も谷本さん。



「千の風 になって」 の替え歌は、社保庁の事務所の前で 泣かないでください そこにはデータはありません お金なんかありません 千の風に ...傑作です。

民芸出身、糖尿病で左足切断、渡部又兵衛の女形はいけます。





徹子の部屋に御出演されたときの動画は消されてしまったようです。

追記

「その歌唱に癒される谷本さん出演の可愛い番組教育テレビ朝6時35分~、と夕方にも再放送がありますから観てあげてください。

「竹内康明さん扮する杉良太郎、あんまりハンサムになるのでびっくりでした!
メイクであんなに変わる、演技力ある方の中に天才的にメイクうまい方っていらしゃいますね。

劇団テアトロ<海>に10年在籍後、劇団冒険物語にて役者として活動。
ザ・ニュースペーパー参加後は新劇で鍛えたよく通る声と、きちんとキャラクターを演じわける演技力で舞台を引き締めている。
実は大ボケを演じさせたら他の追随を許さず、稽古場での「おやじギャグ」も場を和ませる?
楽しいキャラクターの持ち主でもある。ザ・ニュースペーパー以外でも舞台出演多数。

持ちネタ
小沢一郎 枝野幸男 渡辺喜美 亀井静香 胡錦濤 森喜朗

山崎拓 金正男 金正恩 ノーベル賞根岸英一さん 引越しおばさん

山本天心さんの
持ちネタ
田原総一朗 蓮舫 鳩山幸 河野太郎 さかなクン 海老蔵


お相撲さんも意外でしたが蓮舫 鳩山幸が忘れられません(爆笑)

井戸元裁判官、そうめん食べる猫と三分一湧水動画






井戸謙一氏のニュース録画してあったのを忘れていました。

やはり一大決心が要ったのですね。講演会では淡々とお話になりましたけど。





すいません、猫の動画と一緒にして。分けようと思ったのですが



















    


左、リボンの娘、ダブル。右もリボンの娘ブラン。

新聞屋さんや家族が帰宅すると玄関へ直行。眠いときは出来ません(笑)



今日の日曜美術館

ルドン、人間はおろかな化け物、

第一次世界大戦に息子を招集されたルドンの言葉ですが今も同じですね。悲しい。

パラティーノの丘からフォロ・ロマーノへ










フォロ・ロマーノ(伊:Foro Romano)は、ローマにある古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名である。フォロ・ロマーノは、ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)のイタリア語読みである。

紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。

フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。































遺跡の上、丘に人がいるのがわかりますか、私もここからフォロ・ロマーノに降りていきました。

六月初めですがカンカン照り、日本の子供が舞踊に使うような傘を指してる人がいましたがあれでは日よけになりません。

水と帽子、日傘は必需品ですね。





















ティトゥス帝の凱旋門の下は座り込んで休む人で一杯でした。

考古学博物館もあります。

広大で何が何やらわからなくなり、写真だけでごめんなさい。

こういうときはガイドさんがつくツアーがいいですね。

小松左京とOSK果てしなき流れの果てに





今日本が沈没するような気分ですが先月小松 左京氏がお亡くなりなってしまいました。

小松さんは今の日本をどう思っていらしたのでしょうか。

私はSF小説は子供の時に読んだぐらいなのですが、

以前は大阪NHKがOSK日本歌劇団

(実力派の少女歌劇で京マチ子や笠置シズ子たちが活躍、宝塚歌劇団は自らを世界で唯一の女性だけの歌劇と言ってますが、中国にもあります。) の舞台を放送してくれていました。

今はとても残念なことに放送がありません。

OSKは京都南座などで公演しています。

OSKは1923年(大正12年) 5月、道頓堀に大阪松竹座が開場、松竹楽劇部の第一回公演「アルルの女」が上演されました。この頃の公演は、映画と映画の合間に、クラシックの洋楽にあわせてバレエ風の洋舞を踊る芸術的なものでした。

私が初めて生で観たのが小松 左京氏の『果しなき流れの果に』
でした。今はない愛知県の劇場です。

今もあの主題歌が頭の中を流れています。

♪果しなき流れの果に たどり着いた愛の旅路~



もうそのビデオを観ることは出来ません(・ω・、)




そのときテレビ中継で小松さんが「こんな難しいものをどうしてOSKがやるのかと思った」
とニコニコしてインタビューで答えていらしたのです。

小松さんの代表作には時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。



主演は東雲あきら 暖かい雰囲気と確かな歌唱力・演技力で私はいっぺんにファンになりました。

原作は読んでいないのですが現代から始まって古代、ベトナム戦争、未来と時空を越えて活躍する主人公とひたすら彼を待つ恋人がいじらしくて、とても楽しい舞台でした。

ベトナム戦争が出てきたのも小松先生がベ平連創立時の「呼びかけ人」だったからですね。

尊敬する小田実、澤地久枝と繋がっています!

OSKのその舞台のフェナーレは娘役さんたちが皆エトワールというぐらいうまいのでした。

ラインダンスもOSKは凝っていてそれは見事だと思いました。


仁左衛門丈のお父さんが指導された大津皇子や能レビュー恋夢幻 、アップルフェルランド物語 ブルースに抱かれて眠れ など見ごたえがある舞台でした。

好きな作品は吉峯暁子のホンでした。

吉峯暁子先生はOSKの元座付き演出家にして「マツケンサンバⅡ」の作詞家、 レビュー、ミュージカル 作家

東雲さん引退後の「魔剣士」(99年)、「エル・アモール・グランデ」(2000年)、「闇の貴公子」(2001年)
なども観ましたが今は名古屋公演もなくて見ることが出来ません。

小松 左京(こまつ さきょう、1931年1月28日 - 2011年7月26日)は、日本の小説家。本名、小松 実(こまつ みのる)。

星新一・筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる、日本SF界を代表するSF作家。1970年の大阪万博でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問を勤めるなど、執筆以外の活動を幅広いジャンルに対して行っていた。

兄は京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者になった人物で、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた[2]。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという[3]。

少年時代は病弱で、スポーツには興味がわかず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた[4]。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された[5]。

1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った(戦後は柔道が禁止されたので、ラグビー部に転部した)[6]。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという


1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」に。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実や開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した

http://ameblo.jp/gt400ng/entry-10968292809.htmlえんじゅのブログ様から引用させていただきました。

私の大好きな、もうおひとかたのSF作家、筒井康隆さんが当時のSFと、SF作家の地位の低さをギャグにして、
「士農工商、SF作家」とおっしゃってましたが、私、この「果てしなき~」を読んだときに
その、あまりの深さに、三歩歩まず、、、っつか、、たぶんね、布団の中で読んでたんですが、
読み終わったとき、三歩歩むどころか、布団から宇宙空間へ、そして時空を超えて、懐かしい日本の原風景へ、、、という、とんでもない、長い時空間を漂ったような、、なんともいえない感覚を味わいました。
あの感覚は忘れられません。
布団から宇宙空間へ放り出されたような、そしたまた、その場所に帰ってきたような、不思議な感覚。
今でもはっきり思い出せます。小説で、あんな感覚を味わったのは初めての経験でした。
哲学的な、お話でした。「人は、どこからきて、どこへゆくのか」という根源的なテーマを、
時空を超えた、壮大なスケールで描き上げた、大傑作だと思います。
最後は、地球という星への、日本という国への、そしてふるさとの、風景への深い愛がありました





最後は同じ頃活躍されていた宝塚花組大浦みずきと朝香じゅん

私はこのお二人も大好きでした。

左は宝塚のアステアといわれたダンス抜群の大浦、右は大浦トップの時の二番手朝香、退団公演小さな花が開いたは今度再演されます。

毎年、図書館で行われる「平和展」 戦争も原発も根は同じ

 金魚が泳ぐ町郡山は、金魚が平和のシンボルです。
そして大和郡山市は、非核宣言都市。 

            
      
 
 
毎年夏の恒例行事となっている平和展が 図書館で開かれました。
開催は7月22日~24日でしたが、終戦記念日ついでに(ちょっと過ぎましたが・・)
紹介させて下さい。 
 
主催は大和郡山市反核平和実行委員会で、今年で20回目を迎えました。
驚いたのは、大和郡山市教育委員会が事務局になっていること!
  核兵器を作りたいと言ってる石原東京都の教育委員会ではとうてい考えられない平和展ですね。
 
図書館に来て、ついでにホールの一室に何気なく入ったのがきっかけでした。
 
戦争中、日本の象徴だった日の丸や遺品の展示

被災者自身の描いた絵

 

 被災者の記憶によって描かれた絵だけに・・読んでいて真に迫るものがありました。
こちらは、訓練をさせられている子どもたちの学校生活のひとこま。

 
 

 

 
遊びも、戦争ごっこであったようです。しかし、幼い子らに武器は似合いません。

動物も戦争の巻き添えに・・。


このお話は、戦争中、殺処分に決まった二匹の象が、ずっとエサをもらえずにおなかをすかせ、なんとかエサをもらえるようにと、よろよろと一生懸命芸当をして見せる・・
そんな場面があります。ここは、涙でとても読めません・・。
二匹はとうとう餓死してしまうのです。
 
人間の欲望の犠牲になる動物たちは、今回の原発事故でも同じです。
家族のように大事に飼われていた家畜たちの無残な死・・
あまり報道されていませんが、ひどく残酷なものです。
何も分からずに日の丸を持たされている猿

他にもこんな本が戦争の悲惨さや、恐ろしさを伝えます。
リボンプロジェクトの「戦争の作り方」はこわい!
いつでも、今でも日本は戦争ができるような気がしてくる・・。
(一度読んで見てください。)


「大人になれなかった弟たちに」中学校の教科書にも載っていました。
子どもたちは武器で傷ついて死ぬだけではない。飢えや栄養失調でも命を落とす。戦争は弱いものから死んでいく・・原発事故も同じで、幼児が犠牲になるのです。

左、アレン・ネルソンさんは元、海兵隊員でベトナムで活躍したが、後、良心に目覚めて、自分の戦争の体験から、反戦活動を始めた。
『ネルソンさん。あなたは人を殺しましたか?』(講談社)では、「戦争をしようと言う人間は、現場を知らないからだ。」と言っている。
「自分のように戦争の人を殺しあう現場を知る人間は、二度と戦争などしたいと思わない・・」と。
想像力のない、感性が死んでいるとしか思えない原発推進者たちも
福島で一ヶ月でも暮らしてみたらいいと思う。家畜の無残な姿も見るべきです。



戦争は、政治家たちが自分たちの利益を「国益」と称して、戦争をするのです。
 
国民は戦争なんて望んでいないのに・・・。
 
だから戦争を仕掛けるのは国家で、犠牲になるのは国民です。
 
原発推進の構造とよく似ています。

 
 


 
原発事故で、思わぬ戦争の裏が見えてきました。
戦争も、原発も、国家が推進するもの、そして、声をあげなければ国民は犠牲を強いられるだけです・・。

戦争の悲劇も、原発事故の悲劇も、繰り返してはいけないもの。
語り伝えること、政府を監視すること、そして、どちらにもはっきりNOと言う姿勢が大事ですね。
歴史から、戦争から、学ばなければいけません。 
 
平和展は20年目。これからも続けてほしいです。
小さな活動でも、どこかで、気づいてくれる人がいるかもしれません
小さい声も集まることで大きな声に・・。
反戦平和も、反原発も、脱原発も、
大きな声にしていかなければ・・と思います。
 
 


転載元: mimiの日々是好日

久留米の青木繁旧宅訪問





まだ山鹿、博多、久留米の記事も途中なのですが先日、美術番組で

青木繁 ~文人たちの愛した画家~が放送されました。

子供の時に画集で観た「海の幸」やロマンチックな神話の世界の絵が好きでした。

やはり好きなラファエル前派に繋がっていました。








入ってすぐ「わだつみのいろこの宮」と「海の幸」の複製が出迎えてくれます。

とても綺麗に修復されています。無料もうれしい。




明治後期の画壇を彗(すい)星のように駆け抜け、28歳という若さで亡くなった、夭折(ようせつ)の天才画家・青木繁。その没後100年を記念した回顧展が開かれています。代表作「海の幸」を始め、油彩70点、水彩や素描170点。さらに、書簡、写真など、300点にのぼる空前の規模の出展です。

青木は生涯、作品のテーマを、古事記や日本書紀などに描かれた「神話」の世界に求めていました。写実的な風景画や美人画が主流だった当時の画壇は、神話の世界を豊かな想像力で表現した青木の作品に驚愕(がく)しました。さらにその作品は、浪漫(ロマン)主義文学を展開していた明治30年代の文壇にも大きな衝撃を与えます。夏目漱石をはじめ蒲原有明、与謝野鉄幹など多くの文人たちに称賛を持って迎えられました。青木の魅力とは一体何だったのでしょうか。

その作品や残された文章、親交を結んだ文人との関わりから、青木の生涯を見つめます。

繁はたねとはついに正式には結婚しなかったのですね。

ハナ肇とクレイジーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭堂の息子、つまり繁の孫!


落選して故郷に帰り、はかない命でした。落選にめげず自分の道を進んでくれたら‥

奄美を描き続けた画家 田中一村や久留米で見た高島野十郎、熊谷守一も孤高の画家
ですね。

好きな画家にはこういう方が多いです。

独学で絵の道に入り、透徹した精神性でひたすら 写実を追求。終生家族を持たず、画壇とも一切関わらず隠者のような孤高の人生を送った 高島野十郎..





高島野十郎展と同じ久留米のブリヂストン美術館でに青木繁大賞展も見学しました。

今日レンブラント展見たのですが常設展に熊谷守一の風景画がありうれしかったです。

熊谷守一は、青木繁と美術学校で、同期で仲が良かった。

熊谷守一は28でなくなった青木とは対称的に長命。

家からほとんど出ない生活で、金や名声に一切関心はなく「現代の仙人」と言われていた。

文化勲章を辞退。勲三等叙勲の内示も辞退。
さすがです。

熊谷、小川芋銭、香月泰男などの近代日本絵画の大コレクターであった名古屋在住の木村定三は愛知県美術館にコレクション寄贈、その発表の翌日、木村は亡くなった。。


愛知県美術館に熊谷のコレクション寄贈、その発表の翌日、木村は亡くなった。






この雨戸を開け閉めを係りの女性が実演してくれて、バスの中で女性たちが青木繁旧宅の雨戸はどうのこうのと言っていたわけがわかりました。

なんと言って説明すればいいのか、初めて観る雨戸でした。

直角に雨戸が動くのです。雨戸の一部が宙に浮くようにして。












大通りにバルザック像が!




パリのバルザック邸、ロダン邸、フジタのアトリエ、礼拝堂などに行くことが出来たのは幸せでした。





以前、さなえさんに連れて行ってもらった東京駅近くのブリヂストン美術館で青木作品を見たときはここにあるのかと驚きました。


青木は久留米出身で久留米はムーンスターとブリヂストンの企業城下町なので当たり前だったのに。

鳩山さんはブリヂストン令嬢だったママから毎月5000万円のおこずかいを貰っていたんですね。

肝の青木繁京都展を見逃してしまいました(_ _|||)

追記
JR久留米駅の近くに馬の絵で有名な坂本繁二郎の生家が復元されているのですが見学する時間がありませんでした。

坂本は青木の家より上流の武家でした。

坂本のアトリエは、石橋文化センターの園内にあり見学出来ました。

青木繁とは、同じ久留米の出身で、生年も同じことから、比較されたり、並べて論じられることが多い。文学青年で浪漫派だった青木に対し、坂本には学者肌のところがあり、優れた絵画論をいくつも著している。

上述のように、坂本が上京を決意したのは1902年のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であった。幼児から「神童」と持てはやされていた坂本は、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から、上京を決意した、とするのが通説である。同じ1902年の11月から12月にかけて、坂本、青木繁および同郷の画学生・丸野豊の3名は連れ立って群馬県妙義山・信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。青木が1911年(明治44年)、満28歳の若さで死去すると、坂本は青木の遺作展の開催や画集の刊行のために奔走した。

坂本にとって青木は無二の親友であるとともに、終生その存在を意識せざるをえないライバルであったようだ。坂本の死後、遺品のなかからは青木が画学生時代に描いたスケッチ等の未発表作品60数点が発見された。坂本がこれら青木作品の存在を誰にも知らせず、数十年に亘って秘蔵していた理由は明らかでなく、さまざまな推定がなされている。
Wikiより

原発差し止め判決を下した元裁判官井戸謙一氏の講演





西さんが浜岡原発の永久停止・廃炉を願って企画してくださいました。

動画あります。

会場は名古屋市女性会館だったので井戸さんはまず名古屋には女性会館というものがあり驚いた、名古屋の女性は強いのかなというお話から始められました。

井戸さんは穏やかな優しい紳士でした。本当に立派な方、勇気ある方はそうです。

どこかの首長のような傲慢さ、差別的な発言とは対極です。


三人だけで協議して決められる、それは裁判官の醍醐味、やりがいのある仕事、

ひらめ判事はほとんどいない、上からの圧力もない、昔はそういうこともあったが。

退官して弁護士になりこういう講演会にも呼ばれるようになった。大海に出てきた気分。

裁判官と住民の大きな溝を埋めるために地元の人を招いてお酒飲んで話したがその日は判決前の大変な日だった‥

大阪のサウンドパレードのように今若い人の原発反対行動は昔のデモのような悲壮感がなく楽しそうにやっている、これもいい。など正確な表現ではありませんけど。



裁判には今まで冤罪のことや国よりの判決で絶望感がありましたが希望を与えてくださいました。
井戸さんは住基ネットにも違憲判決出されました。






最高裁はしなくていいのか。東電社長は土下座して謝罪 唯一の原発差し止め判決を出した偉大な井戸謙一元裁判長

以下は薔薇または陽だまりの猫さんから引用させていただきました

裁判官は「素人」、世論や専門家に迎合する誘惑

 国の政策を否定する訴えは認めにくい。司法にはそんな印象がつきまとう。原発はその代表格だが、志賀(しか)原発2号機をめぐる訴訟で裁判長を務めた井戸謙一さんは「原子炉を運転してはならない」と言い渡した。なぜ異例の判決に踏み切ったのか、なぜ裁判官は国策に寄り添いがちなのかを聞いた。

――「炉心溶融事故の可能性もある」「多重防護が有効に機能するとは考えられない」。2006年の判決で指摘したことが、福島第一原発で現実になってしまいましたね。

 「まさにそうです。愕然(がくぜん)としました。三陸沿岸では貞観(じょうがん)地震(869年)の大津波があったことが指摘されています。長い地球の歴史から見れば、わずか千年前に起こったことは、また起こりうる『具体的危険』だと思います。原発という危険なものを扱う以上、当然、備えるべきです。東京電力がまともに対応しなかったのは信じられません」

 ――志賀原発の訴訟でも、被告の北陸電力が危険性を小さく見積もろうとしていた印象は?

 「感じましたね。国の言う通りやってるんだからどこが問題なのか、という姿勢でした」

 「原発近くを走る断層帯について、政府の地震調査委員会は全体が44キロ一度に動く可能性があり、想定される地震はマグニチュード(M)7.6と公表しています。被告は独自の調査で、断層は別々にしか動かないから想定はM6.6だと主張しました」

 「どちらが正しいかはわかりません。ただ、多くの地震学者が『M7.6』と言うのであれば、念のためにそれを前提とするという謙虚な姿勢になって当然だと思うんです。甘い想定で『安全だ、安全だ』と声高に言っても、その主張に乗るわけにはいきません」

 ――原子力政策に限らず、「国策」に反する判決は多くありません。裁判官が法務省に出向し、行政訴訟で国側の代理人をする人事制度もあります。司法の構造的な問題ではないでしょうか。

 「人事交流は、マイナスだけではありません。裁判官は行政内部の事情をよく知りません。原告を勝たせたときに、行政にどれほどの影響があるか見えないので、慎重になりすぎてしまう。法務省に出向してみると、原告勝訴でも行政は対応できるものだとわかります」

 「多くの裁判官は、まじめに仕事をしていると思います。しかし、慎重な人が多いのも事実です。裁判官が世論の後追いをしていては裁判官の存在意義がありませんが、世論からまったく自由であるとは言えません。一部の人たちが強く反対していても、国民の大多数が原発を受け入れている段階で『危険だから止めろ』という判決は、かなり勇気が必要かもしれません」

――志賀原発の訴訟では、国の耐震設計審査指針の評価が大きな争点になりましたね。

 「裁判官は原発の素人です。その私たちにもわかるようにと、膨大な証拠が出されます。それを熟読し、原子力発電の仕組みの基礎から理解していくわけです」

 「指針は『立派な肩書』の方々の見解をもとに作られています。それに基づいて設計・建設されているから『原発は安全』というわけです。一般論で言えば自分で決断ができないときに、肩書のある人たちの見解に沿ったほうが無難かな、という心理が働く可能性があります。専門家の言っていることを間違いだと判断するのは勇気のいることです。立派な肩書の方々に賛同しておいたほうが、あとで『あれは間違いだった』となっても、あまり非難を受けないんじゃないか。そういう心理状態になることもありうると思います」

 ――判決では耐震の指針に疑問を投げかけて、差し止めを命じました。「立派な肩書」で判断してしまいたくなったことは?

 「その誘惑はあったかもしれない。陪席の2人と合議して決めるうえで、事前に裁判長として自分の意見をまとめなければなりません。多くの学者が集まって作った指針そのものが不十分である、と私のような素人が判断するのですが、ロジックの参考となる判例はありません」


2011.7.16 の中日新聞のコピーが配布されました。左側の「過去の勝訴二件のみ」の表の×部分が薄れています。勝訴は二件のみ。




追記

東電はろくに水やヨードも配布しない。フクシマではわかってる人も声上げられない雰囲気。

フクシマの給食は地産地消なので危ないとお子さんにお弁当持たせると、教師が給食食べなさいと!

放射能と子どもたち」in 沖縄 小出裕章先生

 
児玉龍彦教授 福島原発事故に対する緊急提案
7.5 仙台 小出裕章さん講演後、質疑応答部 2/2
 
 

4月29日 小出裕章氏&広瀬隆氏 講演

 
jupi611y YAMAGUCHI Chisato
明治大学。入場制限であぶれた数百人のために小出先生が外に出て来られ、「こんなにたくさんの人が集まってくださるのは、嬉しいと同時に悲しい事態。止められなかったことが悔やまれて、言葉にならない。40年間原子力に関わってきた者として、心からお詫びしたい」と涙声。主催者も聴衆も涙。
 

原発の運転差止め判決を下した元裁判官の講演会と原発情報


-7℃さん大阪府と全国の皆さんに応援お願いがれき受け入れしそうです!


みみさんの本日の原発情報






我が家の夏のバラ


みなさま      西英子です。

原発の運転差止め判決を下した元裁判官の講演会です。
この企画はマスコミからも注目され、「週刊金曜日」や各新聞社なども取材に
来ます。 たくさんの方々が参加してくださることを願っております。

日 時: 8月21日(日)午後1時30分~4時20分
会 場: 名古屋市・女性会館ホール     (注意! 伏見ではありません)
     (地下鉄名城線「東別院」 ①出口東へ3分)
参加費: 1000円
主 催: 「原発震災」講演実行委員会(問合せ 西英子(052)808-3241)

第1部  井戸謙一さん の講演
      『司法と原発
       ~志賀原発2号機差止め判決と ふくしま集団疎開裁判~』

第2部  対 談  川口創弁護士(イラク派兵差止訴訟弁護団)との対談
      『司法は市民の最後の砦となりうるか』

井戸謙一さんは、1954年生まれ。75年裁判官任官、今年3月に退任。
06年 北陸電力志賀原発2号機の運転差止め判決。運転中の原発を停めた
唯一の判決。05年 住基ネット違憲判決。
今年から滋賀県彦根市で弁護士登録。福島放射能被害、関電7基再稼働の
差止め訴訟にかかわっておられます。






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